ある学習塾コンサルのメールマガジンから

代表の独り言

私が購読している学習塾コンサルのメールマガジンから、すべてに賛成ではないのですが、興味深い指摘をしていましたので、ご紹介します。

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★『学校教育を補完する使命が塾にはある!』
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◇学校制度は、個人の可能性を引き出す機関ではありません。
こんなことを書くと違和感を強く持つ人がいるかもしれませんが、
もともと学校制度は、社会階層の流動化を目指すためのものだったのです。
皆さんもご承知の通り、士農工商から四民平等へということで、
学校制度が、階層を上昇させるものだったのです。
そして、その階層を超えて何を得るのかというと、優秀な人材なのです。
つまり、国家の行政官を育成するために、学校制度があるのです。
ですから、制度としての学校は、管理と選抜の機関なのです。

◇特に、日本の場合は、明治期、欧米列強に対抗するために学校制度を確立して、
徴兵制度を作ることで近代国家に変貌しようとしていました。
1872年の学制、翌年の徴兵令と続き、近代学校制度が作られます。
国のための学校制度が作られるのです。

◇今では、教育や学校はよいことの代表のように思われていますが(最近は、それも地に落ちている感じですが)、
実は、明治期の秩父事件等は、学校反対を掲げた反乱(子どもたちという労働力を返せ!)だったことは
記憶にとどめておいてよいと思います。教育や学校の相対化のために。

◇話を進めます。敗戦後、天皇のための教育から個人のための教育に転換しますが、
本質的には全く変わることなく、管理と選抜の機能として学校制度は残ります。
そして、荒廃からの脱却が命題になり、資源のない国なので技術立国となるために、
教育が国の発展のために重視されるようになります。
当然、非常に難しいことを学校で行うようになっていきます。
1969年の学習指導要領(現代化カリキュラム)はその頂点です。
ちょうどこの頃から学習塾が流行り出すのです。
学習圧力が社会的に強くなり、日本は、世界有数の教育立国になります。
1980年代以降、先進国の仲間入りをし、国力が豊かになりました。
しかし先進諸外国のように、犯罪率は上昇せず、非常に治安の良いまま先進国になったのです。
 
◇これは、義務教育の大きな貢献です。
1980年代までは、子どもたちの学力は正規分布に近く、平均点付近に大勢の子どもたちがいました。
平均的な子どもたちだけなので、誰でもが計算はでき、漢字も書け、字も読め、
常識も、ほぼ全員が共通の理解ができたのです。
 
◇それが、1990年以降、ゆとりカリキュラムになり、2002年のゆとり教育になり、
学習指導要領がマキシマムスタンダード(最高レベルまで教える)からミニマムスタンダードに変わります。
最低限のことしか教えなくなり、社会における学習圧力が減っていくと、
学力の二極化が起こり、今日では、学力の分断化と呼ばれるまでの状況になっているのです。

◇2020年から施行された新学習指導要領の結果、
平均点は、それほど変わらないが、得点分布は、0点に近い層が数多くなり、
60点前後がその次に多くなって、全くできない子どもとその周辺の子ども、
そして、真ん中ぐらいの子どもが多くなっていったのです。
平均的な子どもがいるのではなく、平均点以下の子どもが多くなって、いわゆる愚民化されつつあるのです。
これでは、社会は、維持されません。話の通じない大人が多くなっていくということですから。
 
◇こういう現状を救えるのは、民間の教育機関である学習塾しかないのです。
文科省の非常に危なっかしい教育改革とその失敗を補完できるのは、学習塾しかないのです。
平均点を取れる子どもたちを一杯作っていくことです。
つまり、学力の正規分布を取り戻すことなのです。
話の通じる大人を社会の構成メンバーにしないと、大変な社会になってしまうのです。
目の前の子どもたちを立派な大人にするべく、塾経営をしてください。
これが、塾人の社会的使命だと思います。

平均とは何かがはっきりしない、学習圧力もあるが、家庭の経済的なものや家庭の教育に対する価値観の差など複合的な要素がある点など、少々賛成しかねる点はあります。しかし、文科省の改革の在り方に問題点があることはしかりです。

今後の塾はどうあるべきなのか、何を変え、何を維持すべきなのか、それを具体化していく必要があると思います。それは、あくまで自塾の維持のためではありません、将来の子供たち、日本の社会のためです。