今年の春、三十三年ぶりに東京へ渡った。就職活動で訪れた二十代の頃以来のことである。あの頃の私は、スーツの裾を風に揺らしながら、ふくらはぎの疼きを歯で噛み殺して、見知らぬ街を歩き回っていた。今回の旅の目的は、美術館巡りと、東京タワー・スカイツリーから夜景を眺めること。ただそれだけの、小倉から上京した五十代のおじさんの、ささやかな願いだった。
二日目の夜、はとバスの「夜の東京ナイトドライブ」に乗り込んだ。二月の半ばに予約を入れておいたツアーである。当日、携帯の充電が底をつきかけ、東京駅南口近くの電気店に駆け込んだせいで、集合時間ギリギリの到着となった。
バスに乗ると、私の席に若い女性が座っていた。
「すみません、私の席なんですが……」
声をかけると、彼女は少し体を縮め、腰をかがめて窓側の席に移った。屋根のないオープン車両は、四月に入ったとはいえ夜風が冷たく、座席は肩が触れ合うほど狭かった。私はなんとなく引け目を感じながら、通路側の席でちんまりと身を固めた。
隣に座れば、もっと東京の夜景を楽しめたはずだ、と彼女は思っていないだろうか。私が悪いわけではない。それでも、そんな考えが頭から離れなかった。
バスは十八時半、定刻に動き出した。
大手町の眩いビルの間を縫い、皇居の前を通り過ぎ、霞が関へ。ドラマの画面越しにしか知らなかった警視庁の建物が視界をよぎり、その先に国会議事堂の白い穹窿が浮かんだ。あの建物とこの建物は、こんな位置関係にあったのか。頭の中の地図と現実の街が、ゆっくりと重なっていく。その感覚が、妙に新鮮だった。
六本木から赤坂へ。渋滞の中を、バスはゆっくりと坂を上った。ネオンが目を射す。かつてスーツで歩き回ったはずの街並みは、記憶の中の風景とはまるで別物だった。再開発の波がすべてを塗り替えてしまったのだろう。三十年も経てば無理もない。高層ビルが林立するヒルズ周辺を見上げながら、五十代のおやじが首を上下左右に振り、目をきょろきょろさせている様は、さぞかし滑稽に映ったに違いない。
隣の女性が後方と話をしていることに気づいたのは、六本木のメインストリートを過ぎたあたりだった。さりげなく振り返る。後ろには二人の女性。窓側に座る女性の顔色が、ひどく悪かった。
青白い頬。浅い呼吸。かつて病床で母を見舞ったときの、あの静かな重さがそこにあった。
会話の断片が耳に入ってくる。どうやら、私の隣の若い女性の母親らしい。もう一人は親戚だろうか。残された時間の少なさが、三人のあいだに漂う空気から伝わってきた。東京タワーの夜景が、母の願いだったのだろうか。ならば、これが最後の親孝行ということになる。
私は窓に目を戻した。
バスは狭い路地へと折れ、五分も経たないうちに東京タワーの足元に着いた。
降りようとした瞬間、後ろからか細い声が聞こえた。
「私は行かない。いいよ。」
次の瞬間、若い女性の声が悲鳴のように響いた。
「お母さんが行かないと意味がないよ! 行こうよ。」
付き添いの女性も同じ言葉を重ねた。私はバスから早く降りたかった。その場にいることが、胸を締めつけた。悲しみの只中に立ち会うことの切なさに、逃げ出したかった。
ツアーの乗客が玄関前に集まり、ガイドの説明を聞いていると、ガイドが車椅子を押してきた。娘と付き添いの女性がそれに続く。母は、説得に折れたのだろう。
私はその車椅子から視線を外し、顔をタワーのてっぺんへと向けた。夜空に突き刺さる鉄塔を、真下から見上げる。すべてを包み込むような、その巨大な沈黙。
エレベーターが扉を開き、メインデッキへ降り立った瞬間、思わず声が漏れた。
「あっ。」
目の前には、七色の光が織り成す回廊があった。桜の花びらが光で描かれ、絶えず揺れ、散り、また集まる。その幻想の通路を一歩一歩踏みしめるたびに、光は形を変えて結ばれ、また解けた。立ち止まることを許さない光の世界の向こうに、東京の夜景が広がっていた。
林立する高層ビルに囲まれ、タワー周辺の眺望は、かつてほど開けてはいない。それでも、人はここへ来る。光の中に美しい記憶を刻むために。今日も、デッキには多くの人が訪れていた。そして私も、その一人だった。そして、あの母娘も。
スカイツリーが空へ伸び、高層ビルが次々と建ち並び、東京一の高さという冠はとうに失われた。それでも東京タワーの価値は、人々の胸の中に生き続けている。あの赤い鉄骨が灯す光は、誰かの記憶と、誰かの願いを照らし続けている。
バスへ戻る時間になった。二階のエントランスへ下りると、あの母娘はすでに席についていた。二人とも、黙ったままだった。
私は席に戻り、ひとつ息をついてから、隣の娘をそっと見た。視線は合わせられなかった。
「もし、よかったら……席、変わりませんか。僕は何度も来たことがあるので。」
嘘だった。とっさについた、生まれて初めてに近いほど真剣な嘘だった。
母との最期の思い出を、窓側から見た景色で飾ってほしかった。私には、もう叶えられないことだから。
「え……」
彼女は、明らかに動揺していた。そんな申し出を受けるとは思っていなかったのだろう。少しの間があって、
「いいです……。結構です。」
私は押し切ろうとは思わなかった。申し出をすること自体、私には相当な勇気がいった。声はうわずり、彼女の目を見ることができなかった。それ以上、言葉は続かなかった。
バスが東京タワーを後にする。後方から外国人観光客の歓声が響く中、車窓には二十四時間消えることのないビル群の光が流れた。もう、言葉はいらない。ずっと見たかった景色を、ただ胸に焼き付けよう。
バスは、レインボーブリッジへ向かう高速の入口へと吸い込まれていった。
